馬先生登場!
タクシーとばして公園に到着したのは9時半頃だったろうか。
8人くらいの人たちがおのおの練習していました。
先生がリードして教えるのではなく、出入り自由で、いつ来て、いつ帰っても自由。
ただ、先生がいる間は教えてもらえる・・・といった感じだった。
私が到着した時は、数人で呉式を通しているところだった。
氏隠は既に私を待ち構えていて、「遅いじゃないか!」と・・・「ゴメ〜ン」
氏隠が馬先生を紹介してくれた。
思ったより小さくはないが、ここにいる中で私の次に小さい。
だが、その体型はというと・・・石のようなのだ!
押しても動かない巨大岩石!のよう。
私は、しばらくみんなの練習を、‘お客さん’として眺めていた。
すると、「24式しよう」と誘う。みんなでするのかと思ったら、そうじゃなかった。
「馬先生が見るから」と氏隠。「私ひとりで?・・・やだよー!(逃)」
「いいから、いいから」と馬先生。
昨日、氏隠の動きを見ただけで、そのレベルの歴然たる差に落ち込んだのに、また恥の上塗りかよ。
たまんないなあ・・・と思いつつも腹を決めた!これが今の私の動きなんだから仕方ない。
「始めます!」動きながら、全員の視線を感じて集中できない・・・話し声も聞こえてくる。
私をモデルに「あーしてはいけないんだよ」と悪例を説明しているように聞こえる。(被害妄想?)
馬先生
(馬先生は私の目には気難しそうな人に映った。ちょっと苦手かも・・・)
馬先生の指摘
馬先生は「足の開きが足りない」と指摘した。
私は日本の教室では、開きを取っているほうなのだが、もっと必要だということなのだ。
「そんなんじゃ、押されたら倒れてしまうぞ。それに体が前を向いていない。まっすぐ前に向かうんだ」
「正!(チョン)」(腰の上に上体を据えて、まっすぐ前に向ける)
「チョン!チョン!」とみんなから一斉攻撃を受けた・・・。
前に向ける為には、足の開きをとらないと、それこそ腰を痛めてしまう。
足の開きがないから体が斜(はす)になってしまう。
馬先生のおっしゃることは実践的なのだ!もっともだ!私だってそう動きたい。
だが、自分が思った動きを日本でしようものなら「そうは教えていない」と非難されてしまうだろう。
まあ、それならそれでもいいんだけどね・・・
それから、「もう少し放松(ファンソン)かな」だった。
お言葉ですけど、あー見られてちゃ硬くなるっつーの!「緊張したもん」といったら笑ってたけどね。
近くで、圧腿をしていたおじさん(馬先生に習ってない人)までが、「あんた、体硬いよ」と、
ビヨ〜ンと足を伸ばして見せつけたりした・・・。
(この人は、体育教育機関の先生だか、研究員だかなんですって)
とにかく、私にとっては耳が痛く、針のむしろのような居心地の悪さを感じながらも、
自分をこういう厳しい場におかないと進歩もしないし、井の中でぬくぬくと外の世界を
知らずに満足してしまう愚か者になってしまう。
たとえ恥ずかしい思いをしたとしても、私は恵まれていると思ったしだいであった。
これぞ、武者修業というものさ!
馬先生の功夫
私にはその仕組みはわからないが、馬先生ほどの人ともなると指一本で人が飛ばせるという。
推手の極意みたいなものなのだろう。老若男女問わず馬先生に推手で挑んでいた。
推手といっても、私が今まで見たのと全然違う。
お互いの両手を肘のところで掴んで左右に動かすことで、バランスを崩した方が負けみたいだ。
年配のおじさんの相手をしている氏隠をみると、おじさんは懸命に氏隠を倒そうと力を込めるが、
強い氏隠はその力を完全に吸収して、柔軟にかわしている。
そして、終いにはちょっと腕を払っただけで相手が崩れていく・・・ふしぎー。
馬先生に挑んでいる年配のおばさんは、自分がバランス崩れそうになると、
後ろ足で地面をパンパンパン!と蹴っていた。
パンパンパン!は「参った!」の合図なのだ。
私は、しばらく‘お客さん’になってそんな様子を見学していたが、馬先生が「押してみろ」と言ってきた。
「押せっていったって腕を掴んでちゃ押せないじゃん!」と思いつつ、勝手がさっぱりわからないので、
馬先生の腕を掴んで固まっていた。
外野は「押せ!押せ!馬先生を押せ!」とうるさい・・・。
「こんな、石のような人押せたって・・・」と悩んでいたら、あっさり馬先生にバランス崩されてしまった。
あんまり、あっさりすぎたので「ムッ!」とした。
馬先生は「朝飯前だ」の顔で不敵に笑ったもんだから、私はなおさら「ムッ!」とした。
「(・・・推手って負けると悔しいものなのだ)」
負けず嫌い
馬先生は、チョチョイのチョイと、私をあしらって帰っていった。
「(ひー!悔しいー!)」
先生が帰っても、みんなは残ったままである。お互いわからないところを教えあっている。
そこへ、ひとりのお姉さんが、私の手をとって推手を挑んできた。
といっても、さっきのと違って、私も知っている、ふたり一組で手を合わせて押したり、引いたり・・・。
相手の気をうかがってバランスを崩して倒す・・・といったものだった。
これなら、見よう見まねで私にもできると思った。
ところが、ここで氏隠からクレームがついた。「正!(チョン)」
これまで私が聞いていた‘単推手’は引いた際は横にかわしていく、というものだったのに違うのでした。
あくまで体は相手に向けたまま、足だけを引くのでした。
「これは辛いねー・・・(汗)」足腰が出来てないと大変な負担である。
「さあ!お姉さん!かかってらっしゃい!チョンで受けてたとうじゃないの!」と、俄然ヤル気がでた私。
相手の気を読む‘聴頸’(ちょうけい)は‘拳’で戦う際の基本である。(武器を使うときは違う)
このことを‘彼不動、我不動。彼一動、我先至’という。‘捨己従人’ともいう。
(このことは武器を使うときも同じ)
相手の動きを接している手から素早く察知する。相手に仕掛けられる前に攻める。
仕掛けるのは相手が先である、しかしそれより先に攻撃する・・・だから‘聴頸’なのです。
眼をつむっていても、‘聴頸’はできる・・・と、私は思っています。
推手は楽しい!
例えがおかしいですけど、座刀市は目が見えない。それに拳ではなく刀という武器を使うので、
相手の刀の動きが見えないと対処できないはず。
武器を使う際は自分に触れた時は遅い(死)わけですから、‘聴頸’ではなく‘目視’がなければならない。
でも、座刀市は空を斬る音で‘聴頸’していたのだと私は思うのです。
それとも触れたとたんに、相手より先に反応したか・・・。
私はお姉さんの気を‘放松’(ファンソン)しながら‘聴頸’に励んだ。
しかも、慣れない「チョン!」で・・・。そうなんです!攻撃するためには‘放松’しなければ、
最大の力が発揮できないのです。
(‘放松’のことは1999年アテネに詳しく書いています。そちらをどうぞご覧ください)
とまあ、こんな能書きは何の役にも立たないわけで・・・。
押したり、引いたりしているうちに「・・・!!フンッ!」と、仕掛けた!
お姉さんは飛んでくれた!「へへへ・・・」やっぱり推手は負かすと楽しい!
本日のメンバーです。撮影tuzi
太極拳の長い道のり
みんな帰っていき氏隠と私だけが残った。私は昨日と今日の恥ずかしかったことを率直に話した。
「みんな、推手ができて羨ましい。私は太極拳をしてきたと言っても推手を今日初めてしました。
恥ずかしいです。推手も出来ないなんて悲しいです」と。
これを聞いた氏隠は「心配ないさ、ゆっくり行こうぜ!
太極拳の練習には段階がある。まずは姿勢からだ、これが一番重要だよ。基本だからね!
その後で推手と武器をはじめる。機械類をはじめる時も一番重要なのは姿勢だ。
そして、その武器を使いこなせるように、じっくり練習するんだ。
最後は散手(実用)だ。だけど、推手は姿勢を極めるためにしていくんだから、
同時に研究していくのさ。(姿勢に帰るということ)套路と推手の繰り返しさ・・・」と。
こういう話が出来る人が私にはいない。
日本の教室には同期の仲間もいないし、相談できる相手が誰もいないのだ。
だから、こういう会話が自然にできるということが自称一匹狼の私にとって、安らぎであり、どんなに励みとなるか・・・
特に私のような‘千里の道も百歩から’人間には暴走を止めるストッパーともなる助言である。
私の別のメル友は‘推手’は勉強しなくてもいい、と言っていた。
また、別のメル友は‘推手’は太極拳の向上に不可欠だ、と言い切るし・・・。
人それぞれ考え方は違う。それに、習ってる所によって状況も変わっているようです。
氏隠の所は馬先生という‘推手’もできる優秀な先生がいるが、ところが変われば
‘推手の優秀な先生がいない’‘推手専門の先生がいない’とあり、環境にも左右されるのだろう。
現在の私は‘推手’が必要、と強く感じている。だけど相手がいないのだからどうしようもない・・・。
(詳しくは2000年北京太極拳参照)
さらに氏隠は「ほら、学校だって小学、次が中学、高校、大学というように順番があるじゃないか。
それといっしょさ」と。
私は「だったら、今の私は小学にもはまらない、幼稚園児ってとこね!」と。
しかも「幼児の遊びね」と冗談のつもりでいったのに、氏隠ってば「ハハハ・・・」と笑ったっきり否定しないでやんの・・・
「(おめえー、ウケてないで否定しろよ!)」と思ったが、これが私のレベルなのだと受け止めたしだいである・・・(泣)
同感モード
氏隠も帰るというので私たちは公園を出た。
きっと、奥さんのために昼食を用意するのだろう。
歩きながら「イギリスで太極拳教えていたのに、北京では教えないの?」と何気なく聞いた。
「教えないよ。僕の本業は太極拳じゃない。習うほうがいい」と。
本分は仕事であり、太極拳はあくまで余暇。
仕事もしないで余暇にうつつをぬかすバカは中国にいないのだ。
私は、この先も中国のこういった人たち(太極拳を職業としていない人たち)の太極拳についていきたいと思います。
そういう意味で「私は一生、習う身です」と話した。
氏隠は私が幼稚園児だからそう言ったと思ったのだろうけど・・・。
そこに一瞬、同感モードの空気が流れた・・・。
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