武者修業in北京(1)

2002年3月1日(金)pm3:30

不見不散!
「不見不散」は中国語で、会うまで帰らない、転じて「きっと会いましょう!」という意味の言葉である。
メールで待ち合わせを決めた際、私はこの言葉を使って約束をした。
日本の友人に散々脅されたが、ここで約束を反古にはできないし、せっかく知り合ったのだから
会うだけあってみようと腹を決めていた。

ホテルからかなり距離があるので歩いては行けない。タクシーを使った。
早めについたので、公園近くのCDショップに入って時間潰し。
太極拳のVCDも豊富で、数枚購入し、日本の太極拳の先生に頼まれていたCDもここで調達した。
レジに行くと、お姉さんが「マレーシア人?」という。どうしてマレーシアなんだろう?
「いいえ」と言うと今度は「韓国人?」という。だから、どうして日本人に見えないんだ?と思いながら
「いいえ」というと、「中国人?」という。きっと、山奥から出てきて、訛っているんだと思ったのだろう。
「(しょうがないなあ!)いいえ、日本人です」と正直に答えると、半端じゃなくびっくりされた。
そんなにびっくりするなんて、こっちがびっくりだよ!
そんなにびっくりされるなら、マレーシア人てことにしとくんだった・・・。

初次見面!
おっと、時間だ。5分遅刻してしまっている。走った。
公園は私たち外国人は有料である。チケットブースのところで待ってるんだろうと急いだ。
・・・と、走ってる私を呼び止めた人がいた。
チケットブース手前のベンチに腰掛けていたその人が私の名前を呼んだような気がしたのだ。
ふっ、と立ち止まって振り返った私に、「zhenji?」「氏隠?」と握手の挨拶になった。
「(このひと、なんで私だってわかったんだろう?)」と思いながら、
「はじめまして、待ちましたか?」と話しながら、公園の中へ・・・。違和感がまるでない(笑)
スウェットの彼は、見るからに利発そうな顔立ちの、体格はいかにも太極拳してる人の体型。
(がっちり、むっちり!四角くて胸板が厚い)彼は私と同い年である。

彼がはじめてくれたメールはこうだった。
「zhenji。あなたの名前は(私の名前はtuziではなくzhenjiという)日本の醤油を連想させる。
中国にはいつ来ますか?」とこれだけ。
なんとなく文面から受ける印象は「自分に自信のある人」というものだった。
そのあとの文面も余計なことを書かず、用件のみの簡潔なものばかりだった。
「3月10日に推手の会があるが、参加しますか?」とも言われたが、既に帰りの飛行機も
決まっていたので残念ながら残れなかった。
実際会ってみても「実力に裏づけされて自信のある人」という印象は変わらなかった。

名前の事
中国の人は決まって「仕事は何をしているのか?」と、聞いてくる。
氏隠の最初の質問も私の仕事のことだった。公園の毎朝練習している場所に腰掛けてしばし雑談。
仕事の次は名前のこと。
「氏隠」はメールネームで本名は違うということ。
「なぜ、氏隠なの?」「中国の長編小説に紅楼夢というのがあって、その中の登場人物なんだ」と。
ははーん、わかったぞ!この人は結婚していて、しかも愛妻家である。
そして女の子の子供がいる。
真相は聞かずじまいだが、紅楼夢に出てくる氏隠はそんな人だからだ。

では、私の名前がなぜ、日本の醤油を連想させるのか?
私の下の名前は中国語読みすると‘zhenji’(ツェンジー)となり、書けばzhenjiの2文字になる。
zhenと読む漢字はたくさんある。同様にjiと読む漢字もたっくさんあるわけで・・・。
だから、zhenjiとローマ字で書いてると、どの漢字が当てはまるか分からないというわけ。
大抵の中国人は私の名前を‘珍姫’と書くものと思うらしい。第2候補は‘貞姫’である。
珍も貞も中国語読みすればzhenとなるのだ。
で、氏隠が醤油を連想したのは、‘珍極醤油’という商標の醤油が中国で売られているらしいのだ。
極はjiと読むから、うなずける・・・
でも、初めてのメールで醤油みたいな名前だって言うかぁ!?

秀才!!
彼の専門は絵画・水墨画だという。神戸で開かれた展覧会に出品したことがあるそうだ。
だが、日本に行ったことはないという。

そして私に名刺をくれた。見ると、勤め先は国家機関らしい・・・。
それに、太極拳本に掲載された彼が英語で書いた記事のコピーもくれた。
近々太極拳の本を出版するため執筆中だと言う。
以前はイギリスの大学で教鞭をとっていたとも言っている。
イギリスに住んでいた頃は太極拳を教えていたと言うのだ。
そういえば「あなたが英語が出来ればもっと、コミュニケーションがとれる」とメールにもあったっけ。
今の私は英語より中国語の方がまだましだったので、メールではそう返事していたが、
「この人って半端じゃなく英語できるんじゃん。」私の英語は中国語と、どっこいどっこいなので、
どっちに転んでも似たようなものである。その上、彼は日本語も以前勉強したことがあると言う。
「もう、すっかり忘れた」と言っていたが、頭のいい彼のことだから、その気になれば
あっというまに私よりもずっと上手に日本語が話せるようになるに違いない。

日本に帰ってきてからの話だが、私はこの旅行がきっかけで、このホームページを作り始めた。
そのことを知らせると、「俺も持ってる」と返事があった。
開いてみたら、彼の若い頃のほっそりした写真が貼ってあるプロフィールだった。
翻訳もしていて、中国作家協会のホームページのようだ。
彼の彼らしい、輝かしい履歴書がそこにはあった!
北京大学大学院英文科卒!
ハハァーーーッ!!(時代劇で、代官様に平たくなってお辞儀するように・・・)
数々の受賞経験あり!器用貧乏という人はいくらでもいるが、彼のはそうじゃなくて、
なんでも一流にこなせる人でした。利発そうだと思った印象そのままの人でした。
私の目に狂いはなかったようです。
あっ!それで思い出しましたが、「なぜ一目で私とわかったのか?」と聞いてみたところ、
「俺の人を見る眼は厳しいんだ」だって!
ハハァーーーッ!!(平たくなって地べたに頭をこすりつけて・・・)

ミニ表演会
彼は、太極拳でもそのオールマイティぶりを遺憾なく発揮していた。
太極拳歴を聞いたところ、楊式10年、陳式を始めて5年、
そしてここの先生には呉式を習っていると。
そんな話しをしていたら、毎朝いっしょに太極拳しているという、おじさんがやって来た。
このおじさんは、70歳から太極拳を始めて、今年83歳になると言う。
私は思わず「棒極了!(バンジイラ!)」(素晴らしい!)と褒めた。
「あんたは何式をするんだ?」「楊式です」と私が答える。
「楊式は簡単すぎて面白くないよ。呉式が最高だ!」と冗談めかして言う。
氏隠も「馬先生は強い」と尊敬していた。
おじさんもうなずいて「馬先生なんか俺より小さい」と言う。
「へえっ?」「あんたくらいしかないんじゃないか?」「うっそー!?」
おじさんの冗談かと思って氏隠をみると、真剣な顔でうんうん、うなずいているではないか・・・。
「うっそー!?」私が立ち上がって見せると「うん、そんなもんだ」と真面目に言っている。
「馬先生は女の人?」「いや、男だ!」男の人で、私くらいの背丈で最強って・・・いったい?

私のリクエストで、おじさんの呉式の表演が始まった。
私は呉式の知識はないが、見てると套路名はわかった。
私が声に出して言うと、氏隠がうなずいてくれた。合ってるようだ。
おじさんは朝からずっと公園にいたのだろう。パチパチ・・・(拍手)


太極拳は誰もが自分の味を持っている!「棒極了!」


今度は氏隠の陳式が始まった。研究熱心で今度は太極拳の本まで執筆中だという
彼の動きは隅々までキッチリ神経が行き届き、妥協を許さないものだった。
パチパチ・・・(拍手)

 楊式歴10年、陳式歴5年、呉式歴3年


 当然「棒極了!申し分なし!」


今度は私に「何かやって見せろ」と言う。「えー!やだよ!」「楊式やれ!」とおじさん。
「だめだめ、忘れたもん・・・じゃ24式・・・」
人前ですることがない私は、緊張しながらもやって見せた。本当に恥ずかしかった。
きっと、氏隠のことだから「切磋琢磨の相手じゃなかった」と、さぞガッカリしたことだろう・・・。

交換
さっき買ってきた太極拳のVCDを氏隠に見せた。
「うん、まあ・・・いいんじゃないの」と見ていたが、中に呉式の剣を買ってしまったようで、
「これは、なかなかいいよ」と言う。でも、私は呉式の剣を覚える気はないので、
「えっ?呉式?・・・あっ!間違った!」などと失礼千万なことを言い、「取り替えてもらおう」と氏隠とさっきの店に行った。
「どの先生のVCDがいいのかなあ?」「この人は有名だよ」
見ると黒ぶちのメガネをかけた人が勇ましいポーズで写っていた。
「顔がいやだ!」と私は言いたい放題・・・。
その人は‘崔仲三’という伝統楊式の大家だったのですが、買ってまで見る気にはなれなかった。
日本でも有名な、とある武術家なんて「顔ばっかり怖くて、動きはポーズにしか見えない」
と言ったら、彼もうなずいていた。有名だからって、名前のブランドに左右されてはいけない。
自分の目を信じることも時には必要なのではなかと思っている。

まあ、いろいろ見たけど、交換したい太極拳VCDがなかったので、
私はポップスのCD(田震・女性ポップスの頁参照)と交換することにしたのでした。
「どんな音楽聴くの?」と聞く私に「聴かない」と氏隠。彼はヒーリング音楽すら聴かないと言う。
「頭がワンワンする」と言うのです。

また、明日
明日は週末なので、7:00〜11:30までいると言う。
「その間ならいつ来てもいい」というので、「わかった、じゃ明日」と別れた。
今日だけの出会いかと思っていたが、明日に繋がった。
2000年に会った3人の捜索は、これで打ち切りになった。
・・・別れもあれば、新しい出会いもある。
「逢うは別れの始まり」ともいう・・・。私はこの世で出会ったのもなにかの‘縁’だから、
出来ることなら長く付き合っていきたいと考える方なのだが、そうは思っていても別れはやってくる。

今回の2000年の人たちとの永遠の別れは「これが最後と思って会いなさい!」という教訓となって私に深く残った。

でも、数年後北京に行った際は、しつこく写真を持っていって捜索するつもりでいる私だ。
人間生きていれば必ず会える!
・・・そう信じて。・・・それにしても、どこに行っちゃったんだろう?



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vol.21