故宮博物院(2) 書の1
宋代以前
<このページには私が実際見たもの、見たかったものを集めています>
(館内は撮影禁止ですので、写真は資料からの転載です)

2階 書
時代
人名
作品名
晋 
王義之
     「快雪時晴帖」 (台北)

     

たった24文字の行書の傑作。
吹雪が止んだ時に書いた友人に宛てた書簡。
会いに行くという約束をなかなか果たせないでいることを詫びる内容。
書の「金字塔」的存在。
     「蘭亭叙」 (太宗墓?)

天下第一行書」の異名を持つ書の傑作。
353年、永和九年。
北伐に敗れたこの時に王義之は蘭亭で宴を催した。
彼は、江南地方からも人手を集めて北伐に向かうのに元々反対をとなえていた。
飢饉に備えるべきと考えての事だった。
その、北伐が失敗に終わったちょうどそんな時だった。

主催者である王義之が一気にこの宴の‘叙’をしたためた。
緊張感が漂う。
「・・・人は喜ばしい時、老いが我が身にせまることに思いも及ばない・・・」
「・・・古人いわく死生もまた大なり・・・」
文面は、長寿も短命も同じことだ、という諦めを否定している。
時が移り、世が変わっても、この宴の意味を汲み取って欲しい。
としめくくられている・・・意味深い内容なのだ。

唐の太宗皇帝が王義之の書2000点あまりを集めたが、
「蘭亭叙」だけは行方不明のまま手に入れていなかった。
ようやく探し当て、真筆が手元に届いた時、太宗は「自分が死んだら、
いっしょに埋葬してほしい」と言い残した。

臨書の模写と拓本が現存するばかりである。(拓本の原石も失われた)
模写は何人か書いていて、中には個性的過ぎるのもある。
明代の‘文徴明’84歳の模写は優雅すぎて骨がない。柔すぎるのだ。
ある意味、王義之を研究し尽くした彼の捉え方の表れなのかもしれないが・・・。
王 c
     「伯遠帖」 (北京)

     

行書の傑作。王義之とは血縁関係にあたる。
静養のため旅立つことを、いとこの伯遠に知らせるために宛てた書簡。
王献之
     「中秋帖」 (北京)

     

行書の傑作、といっても行書を羅列した教則本で、文面に意味はない。
たっぷり墨を含ませた書き出しが気持ちがいい。
そのあと墨を足さずに一気に書き上げている。
王義之の息子。文字のうまさも遺伝するのだ。
ヒョウ承素
     「模本蘭亭叙」 (台北)

これは現存する王義之の筆跡から判断して、かなり忠実に模写されていると
考えられる。
王陽洵 
唐代、‘楷書の極則’ともいわれる楷書の形式を確立した人。
王義之亡き後、書の形式はそれまでの「心を表す」ものから
誰にでも「読める、分かり易い」ものに移行していった。
諸本が増え、その清書用字体として楷書が広く普及したのもこの頃。
現代でいう‘ワープロ打ち’のようなもので、形式化された文字では
心がこもらないという見方が一方にあった。
孫過庭
     「書譜」 (台北)

     

楷書がもてはやされた時代にあって、「書」のあるべき姿を書いた論文。
王義之、王陽洵を理想とし、書に対する心構えを書いている。
書による心の復権、ルネサンス!351行、3727文字の大論文。

私は、高校時代書道に明け暮れる毎日を(いささか大げさだが)送った。
王義之をはじめとする、中国古典が大好きで臨書の題材としていた。
とりわけ好きだったのは、‘顔真卿’‘蘇軾’
文字だったら‘隷書’が好きだった。孫過庭の「書譜」も臨書した。
すべるように息を切らさず一気に書かないとリズムが取れない。
そんな勢いの中に優雅さも併せ持っていた・・・と記憶している。
顔真卿
     「劉中使帖」 (台北)

短い書簡。豪快な文字は顔真卿の剛直な人柄そのもののようだ。
やはり「書是人也」
     「蔡姪文稿」(さいてつぶんこう) (台北)

     

顔一族は孔子の子孫である。
地方長官時代、いとこの顔孔明が敵軍に捕らわれ、その息子が戦場で命を落とした。
その首を納めた棺を前に書かれた追悼文。
行書で書き始めているが、激昂するにしたがい草書へと変化する。
墨を足すのも忘れ、最後の方はかすれに任せている。
書き損じも多いが、そんなことはどうでもよい。
「・・・天がこの禍を下したことを悔い改めなければ、この苦しみを誰があえて
引き受けようか・・・
呼呼哀哉」哀しみの深さ、心の激昂が伝わる。 
心を打つ文面、そしてその哀しみが書と一体を成している。

顔真卿はおおらかで、力強さが特徴である。
晩年、‘蔵法’という筆先を包むようにして書き出す書体を書いている。
私は、蔵法での顔真卿が好きでよく書いたものだが、
最近は王義之を学び「楷書の名士」と言われた若い頃の顔真卿も好きになった。
1997年西安の‘碑林’で晩年の顔真卿の拓本の原石を見て、改めて彼の豪快さと、
落ち着いて揺るぎのない文体に敬服した。
王義之は書聖といわれ顔真卿も学んだ人だが、私の中では顔真卿が「天下第一」だ。
懐素
     「自叙帖」 (台北)

     

湖南省に生まれた懐素は、家が貧しく紙が買えなかったため、
庭に芭蕉の木を植えその葉に書いて練習した。
そして幼い頃に仏門に入る。
そこで書を学び、古今名高い書の名士に交わろうと都をめざした。
やがて、顔真卿と出会うことになる。

懐素の文字は型にはまらず、大きく旋回するような草書である。
僧侶のくせに、酒を飲み酔えばところかまわず書きなぐったという。


書聖・王義之
4世紀はじめ晋代、山東省。
高級官僚の家に生まれ、彼も後に官僚になった。
幼い頃から、書に打ち込み服はいつも右ひざが擦り切れていたという。
書家として彼の書は売買されるほど有名だった。こんな話がある。
ある日、橋のたもとでうちわを売る老婆にあった。
サラサラとうちわに文字を書いたところ、
老婆は「売り物にならないじゃないか!」と怒った。
「王義之の書だと言ってごらん」と言って立ち去った。
うちわは瞬く間に売り切れたという。

後世の書を極めるものは必ず王義之の臨書を通ったはずだ。
とりわけ楷書、行書は書聖・王義之がお手本なのだ。


三希堂とは
北京紫禁城内‘養心殿’にある三希堂とは何を意味するのか?
一、 王義之「快雪時晴帖」
一、 王 c「伯遠帖」
一、 王献之「中秋帖」 の書を指しています。
これらは清の乾隆帝によって集められました。
乾隆帝34歳の時だったといいます。
乾隆帝は芸術全般にわたって造詣が深かったが、とりわけ書が好きだったようです。
現在「快雪時晴帖」の真筆は台北に、「伯遠帖」「中秋帖」は北京に残っている。
乾隆帝は毎年初雪が降った日に「快雪時晴帖」を取り出し、
「天下第一聖書」とした王義之の書の偉大さを偲んだといいます。


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